周来友エッセイ「床屋の思い出」

「床屋の思い出」

                                                                 


 自慢話でもないが、私は50歳を過ぎても髪の毛はまだふさふさ。髪質は硬く伸びが速いため、月一のペースで切らないと髪の毛はぼうぼうとなってしまう。
 テレビ番組に出るようになってからは、スタジオに入る前いつも局のメイクアーティストにメイクアップと一緒にヘアスタイルも整えてもらっている。普段はと言うと、月末に長年親しくしている美容師が面倒を見てくれるので、彼が勤務する美容室を変える度、私はその美容室まで足を運ぶのである。それが家のすぐそばの北新宿から、池袋、巣鴨と段々と遠くなってしまった。

 という訳で私には髪の毛にまつわる思い出が他人より多いかも知れない。

 まだ私が留学で日本に来る前のこと。前世紀八十年代の半ば頃である。
 毎年、北京の大学に短期留学で中国語の勉強に来る日本人がいた。大阪府の岸和田市日中友好協会の事務局長をされる年配の方。共通の趣味である切手集めを通じて友達となった。
 ある日、彼はいつも地元で通っていた理容室、当時は初めて聞いた「床屋」の主人を私に紹介してくれた。それから数年間、私は日本での留学が決まるまで、その「床屋」の主人と月に一回の文通を続けた。NHKの語学番組で中国語を勉強している成果か、大阪の岸和田から来る手紙はいつも、漢字ばかりで綴られていた。

 ある時、私の誕生日にお祝いの荷物が送られて来た。開けてみると中味は資生堂のシャンプーとリンス、それに櫛と剃刀だった。それらのものは恐らく私が初めて手にした日本製品で、毎日愛用するうちに私は日本に憧れるような気持ちになり、いつかは日本で留学しようという計画が芽生えた。

 やがて、私は東京へとやって来た。1987年3月21日、春分の日のことである。

 当時、東池袋三丁目にある日本語学校のクラスメートの殆どは、午前中に学校へ通いながらも、午後からは安い時給のアルバイトに精を出さなければならなかった。池袋から学校へ行く途中のサンシャインと、その周辺の繁華街には、目が眩むほどに欲しいものが溢れ、そして容赦なく、異国の若者たちを誘惑していた。しかし、たとえ百円の買い物でも、考えに考えた挙げ句、やっと買おうと決心出来る位だから、無駄遣いの余裕はとてもなかった。

 日本語学校のクラスに一人の少々年を取った生徒がいて、上海から持ち込んで来たバリカンを使っては、順番でみんなの髪の毛を刈ってくれていた。まったくの素人だから、腕前は言うまでもなく、めちゃくちゃだったが、数千円の散髪代を払わずに済むことは、クラスメート全員にとってはどんなにありがたかったことか。

 それでも私は来日二ヶ月目で、とうとう店の前でくるくる回っている赤と青の看板に負けて、学校のビルの裏通りにある一軒の床屋に足を運んだ。

「いらっしゃいませ」

「髪の毛を刈ってもらいたいんですが、おいくらですか」

 私は自動ドアが開くとすぐ目の入ったレジ台の上にはってある、値段表を見たにもかかわらず、たどたどしい日本語で尋ねてみた。

「二千五百円です」

 返事はいかに無愛想だった。

「二千円でお願い出来ませんか」

 私はポケットの中の財布を握り締めながら、深く頭を下げた。

 恐らく私がこの床屋に入った初めての外国人だったのだろう。それに加えて、いきなり値引きしてくれ、と聞き慣れぬ言葉で求められたためか、戸惑いぎみの主人は、一層困惑しているように見えた。

 しかし、怪しい人物には見えなかったのか、説明してもどうせ無駄だと思ったのか、彼はいやいやながら椅子の高さを一段下げ、指を差して私に座るよう促した。そして伸び切った私の髪の毛を黙々と鋏で切り落とし始めた。

 十五分程の時間が経つと、

「はい、終わり」

 彼は厄介払いをするかのように、私の肩を叩いた。

 超高速スピードの作業だった。当然、洗髪もないし、髭も剃らなかった。

 翌日、私は会話の授業で、自慢そうに前日の出来事をこと細かに日本語で話した。まるで冒険談のような私の話を聞いて、みんなの顔に羨ましげな表情さえ覗えた。ただ、床屋に対してまで、余計に「お」を付けた上に、関西訛りのようなアクセントで言ったものだから、どうやら担当の女性の先生には、「男屋」に聞えてらしく、思わず一人で噴き出していた。が、次には、

「常識的には、床屋で値引きするようなことを日本人はしませんから」

 と彼女は顔色を変え、とがめるように私に言った。

 その年の暮れ、私は日本語能力試験1級に受かり、翌年の春先日本の大学に入り直すことに決めた。大学に受かると、私は池袋に近い板橋区の大山に引っ越し、そこにあるバイト先の会社の寮に住み着いた。

 大山は池袋から東武東上線で3番目の駅で、都内一長いアーケードのある商店街があって物価も安く、とても便利な町だ。そのハッピーロードと言う商店街の入口あたりに一見、なんの変哲もない床屋があった。確か「男子専科」とか言う看板がかかっていて、いつも五、六十年代のアメリカポップスが流れている店だった。

 そう言えば、他の店とちょっと違うなぁと思うところもあった。待合席の傍らに積まれているのは『ジャンプ』や『マガジン』と言った漫画本でも、『「フライディ』や『フォーカス』などと言った週刊誌でもなく、全て囲碁の本で、それが無造作に重ねられていた。店の主人も一風変わった人で、ひょろりとした体に長めの髪を後ろで一つに束ね、床屋のくせに、なぜか無精髭を伸ばしたままだった。

 ビルの二階にあるこの店に初めて顔を出したのは、ある火曜日のことだった。月曜日が定休日と言うこともあってか、かなりの客が待っていた記憶がある。客は皆何かに飢えていそうな若者ばかりだった。

 次第に待つ人が減って行って、やっと私の番が回って来た。すると、

「ちょっと待って、あの人にやってもらおう。同じく向こうの人だから」

と店の主人はニコニコしながら、奥の客の髪を仕上げている店員と入れ代わった。

「怎么个理法」(どう言うふうにしますか)

 私が椅子に座った途端、後ろから蚊の鳴くような小さな声で尋ねて来た。

 東北訛りの中国語ではないか。

 一瞬不思議に思った私は思わず、目の前の鏡で店員の顔を確認した。五十がらみの寡黙なおやじで、人懐っこそうな表情を見れば、確かに自分と同じ中国人であることが分かる。私は久しぶりにこの見慣れた顔に郷愁さえ覚えた。

 話を聞くと、彼は吉林省の出身で、五年前日本人の奥さんと一緒に一家日本に移住して来た、いわゆる残留孤児の家族だそうだ。年を取っていたせいか、日本語がなかなか覚えられず、一時的な肉体労働を転々として、定職には就けなかったと言う。中国では長春にある国営の理髪店に三十年勤め、腕には自信があるとも言っていた。前の年の暮れに、友人の紹介で知り合ったここの主人が、ちょうど若い見習いにやめられて困っていたところに、趣味が囲碁で共通なことも手伝って、日本語があまり出来なくても、囲碁を打つと同じく、腕に覚えがあれば言葉が要らない、と直接その場で働かせてくれたと言う。

 勿論、カットの技術も悪くなかったが、私はむしろ店の雰囲気と人柄に惹かれて、この店に通うようになった。

 ここだけの話だが、それにはまた私のちょっとした下心もあったからだ。この店は他の店と違って、髪のカットや洗髪をした後に、形だけでなく、延々と十五分近くにもわたってマッサージをしてくれるのである。これが私にとっては、いわば極楽のひと時だった。今でも不思議に思うのはなぜ、日本の床屋が皆まるで中国なら、本格的なマッサージの指導を受けた人のようにやり方が上手くて、気持ちが良いのかと言うことだ。

 カットしてくれるのは、馴染みのあの店員だけではなく、たまには店の主人だったりもするが、しかし、マッサージをしてくれるのは、いつも店主の奥さんしかいない。主人と正反対で、ふっくらと肉付きのよいタイプで、美人とは言えなくとも、胸の形は例の小池栄子ばりである。

 力があるせいか、こっていた肩に押し付けてくる指先の加減がなんとも具合がいい。とは言っても、私が最も感激するのは別の部分だ。その部分がマッサージの最中に微かに私の肩や首の後ろにタッチしてくれるような気がして、たまらないのだ。

「旦那さんは仕事が忙しいから、きっと欲求不満なのだろう」「それとも外人のお兄さんの私に気でもあって、挑発しているのではないだろうか…」

などと、触れられるたびに、妄想が頭の中を駆け巡るのである。それはそもそも、私が想像豊かな部類に属すためか、あるいはまだ子供っぽさから脱皮していないためかもしれない。

 子供の頃と言えば、私は床屋、つまり中国で言う「理髪店」で、とても恥ずかしい体験をしたことがある。高校一年頃のその体験を思い出す度、今でもどきどきして、息を呑んでしまう程だ。

 周知のように、中国は男女平等の社会で、女性もあらゆる仕事に就き、平気でそれらの仕事をやり遂げてしまう。まして理髪店のようなところは、まさに彼女たちが花開くのにふさわしい仕事場だ。

 初夏の北京は一気に暑くなる傾向がある。理髪店で働いている彼女たちも早速、半袖の仕事服に着替えて、露出した二の腕が吊り下がった大きな扇風機の風を浴びている。エアコンがまだ庶民に知られていなかった当時にあっては、風の行き届くそのスペースは涼しくて、けっこう居心地の良いところだったと言えよう。

 私は二十代後半のお姉さん、いや、体つきと色気で言えば、新妻と思われる人に髪を刈ってもらっていた。髪をカットして洗った後、彼女は私の顔を拭こうとして、タオルを顔に押し当てて来た。ふと開けた私の目の前に、タオルと彼女の挙げた腕が迫って来た。

 短い半袖の隙間から、黒い脇毛がはっきりと覗けたのである。

 中国の女性は日本人と違って、トップモデルでも、昔から腋毛を剃る習慣がなかった。しかし、あんなに近いところで女性の恥ずかしいものを見たのは初めて、本当にぞくぞくとしてしまった。その時に受けた鮮烈な印象は今でも忘れられない。

 大学を卒業すると共に、私はまた別の町へ引っ越したが、散髪だけはその後も、続けてその店に通ったものである。

 しばらく経った、ある年の暮れに、私は大学院の同級生たちとたまたま、ハッピーロードにある居酒屋で忘年会をすることになった。

 その店の奥にある個室で、床屋の主人が例の中国人の店員と二人で酒を呑みながら、碁を打っているのを見て、私は声をかけに行った。

 床屋の主人はもうかなり酔っていた。店員が小声で、私に一つの秘密を中国語で漏らした。

「コストなどが高くて、もうやって行けそうもないから、今年いっぱいで、店を閉めることになります。今日の飲み会は忘年会でもあり、別れ会でもあるのです」と。

 私は一瞬残念に思った。が、その一方で、もしかしたら別の床屋でまた、思いもよらぬ出会いが待っているかもしれないと、心の中に別の期待感さえ沸いて来るのを抑えることが出来なかった。