周来友エッセイ「月はどっちに出ている」

「月はどっちに出ている」

                                                                 


 「思い違いじゃなければ、この角に交番がなかったっけ?」

 五分程走っていたタクシーが路地裏からようやく、大通りに出ようとする時、運転手は突然不思議そうな口調で客の私に聞いた。
 前日の夕方から、中国語の翻訳と編集の立会いで、ずっと某テレビ局の編集室にこもっていた私は、作業が終わった朝の三時頃、局の裏口の前で待機していたタクシーに乗り込んで、西新宿へ向かって帰宅の途中だった。
 年の瀬が近付いているせいか、思ったより道が混んでいる。
両手でハンドルを操りながら、運転手は数ヶ月前にその交番を目印にしてひどい目に遭ったことを暫く私に話し続けた。

「東京の景色って、ちょっと来ないとすぐ変わるからね。最近は古いビルをどんどん壊して新しく建て直してるし。それに夜だと、昼間との感覚が全く違うからね」

 私が返事をしているうちに、車は外堀通りを左折して、新宿通りに入った。

「数年前はタクシーの運転手も地方出身の人が多くなってきてね、最初はなかなか道がわからなくて、覚えられなかったりしてね」

 調子に乗ってきたかのように運転手はまた話し始めた。

「聞いた話なんだけど、うちの会社に沖縄から出てきたばかりの人がいて、すごいマンモス団地の中に入って、帰ろうと思うのに同じところをぐるぐる回っていて、全然表の道に出られなくなっちゃったんだって。しまいには電柱に登ってやっと、自分がどこにいるかが分かったんだって。これ、本当の話なんだよ」

 運転手はべらべらずっとしゃべり続けていた。
聞き手の私は笑いながらも切なくなって、思わずバックミラーに映っている彼の顔を盗み見た。
 今度は私がだいぶん前に見た、当時結構話題になった『月はどっちに出ている』という映画で、やはり自分の帰るタクシー会社がわからなくなって、会社に電話をかけて自分の居場所を聞く話を彼に話した。

「月はどっちに出ている?」

と聞かれて、とにかくその月の出ている方向に帰って来いと言われる崔洋一監督の映画の中の話である。

「その映画なら知ってるよ。ルビー・モレノが出てたでしょ! 私も見たんだよ」

 運転手は興奮していきなりブレーキを踏んだ。そして、少し弾んだような表情を見せながら、独り言のようにつぶやいた。

「フィリピンの子たちって、本当に明るいんだよね」

 車は不夜城・新宿歌舞伎町前の路上に入って、更にスピードが緩んだ。
車窓から周りに目をやると、前にタクシーの列が白い排気ガスを吐き出して、立ち往生している。その車と車の間を酔っ払った男女の群れが肩を組み合って、よろよろとした足取りで通り抜けていく。
世の中は正に忘年会シーズンの最中。
 この光景を目にした彼は不満げに大きな声で嘆いた。

「フィリピンの子たちは家族のために来ているんだけど、ほら、それに比べて、日本の女の子たちの方がよっぽど乱れているんだよ。不法就労したりして、強制送還は仕方がないが、何とかしてやりたいんだよね」

 彼は心から心配しているような声でハンドルを右に左に切り替えて、人の群れを避けながら話し続けた。
 車は相変わらずスムーズに進まない。

「付き合ってたんですよ、この私が・・・・・・」

 突然打ち明けるような感じで彼は言った。その声は少し艶を持ち始めた。

「明るくて良い子でね、家族のために一生懸命でね。でも、別れたんだよ。あのルビー・モレノが事務所と揉めたのと同じ、やっぱりお金にはずいぶんシビアだからね」

 私は迷ったが聞いた。どこで知り合ったのかと。

「タクシーって夜の方が割合良いから、前からよく昼間寝て夜勤していたんだ。時々彼女たちを乗せたりしてね。あなたたちテレビ関係の人もそうだけど、水商売の人は遅いからね。でも本当に明るくて良い子だったんだ」

 あえて自分がただの外国人通訳で、たまにしか深夜労働をしないことを彼に告げなかった私は、黙々と話に聞き入れながら、再びバックミラーで彼を確認した。白髪交じりの初老の目がいつまでも名残惜しそうに映った。
 車はようやく山手線の陸橋を潜って、西新宿界隈に入った。高層ビル街を通れば、もうすぐ目的地だ。
 左側で止めれば大丈夫だと断ったが、なおもUターンして家のある反対側にまで乗せてあげるからと言ってくれた。
 私を下ろした後、彼も車から出てきて、白い息を吹きながら、近所の大通りに面するコンビニに入ろうとした。
 私は一瞬立ち止まって彼に手を振った。そして、しばらくその後ろ姿を見つめながら想像をした。

(ここのコンビニで彼は朝ご飯とも、晩ご飯ともつかない中途半端なお弁当とスポーツ新聞を買うだろう。
少し前ならきっと、あの底抜けに明るい笑顔の彼女のためにバニラのアイスクリームもついでに買ったことだろう。)

 私は彼の話した沖縄出身の電柱に登った男というのはひょっとしたら、彼自身ではなかったのかとふと思った。彼はもう居場所に迷うこともないほど、東京の地理に詳しくなったのだ。

 師走にしては、何とも暖かかった満月の夜の話である。