周来友エッセイ「向日葵」

「向 日 葵」

                                                                 

 大学の卒業旅行で北海道を一周した。

 旅の仲間は総勢5人。実家が札幌の日本人クラスメイトが運転する自家用ワゴンで旅はスタートした。

 先ずは道南から道東、そして道北へ。北海道を反時計回りに巡る旅は順調に進んだ。そして最北端の稚内から札幌に戻るという旅の終盤、車を出してくれたクラスメイトが私に日本一のひまわり畑を案内するという。まっすぐに続く旭川市郊外の国道で彼は車を東に向けた。

 行き先は北竜町という小さな町。大学生協の観光案内コーナーで笑顔満開の観光客が載ったパンフレットをしばしば目にしていたが、抜けるような空の青さと鮮やかなひまわりの黄色のコントラストが目に浮かび、期待に胸が膨らんだ。

 そしてとうとう目的地に到着。車を降りると、そこには一面のひまわりが。まっすぐ伸びる丈夫な茎、太陽の光を思わせる丸い花、そして花びらの奥にぎっしりと詰まった種……想像を遥かに上回る黄色い世界だ!すっかり圧倒された私たちは、目の前に広がった巨大なひまわりの迷路の中にしばし呆然と佇んだ。

 中国には田舎でも都会でも、家の庭先にひまわりを植え、そのタネを炒って食べる習慣がある。ただ、ひまわりを見てこんなにきれいで感動的だと思ったことはそれまで一度もなかった。想像を上回る景色に心を奪われていると、ふと来日前の出来事、そして大学で世話になったある恩師とのやりとりが蘇ってきた。

 北京や上海など中国の大都会で若者が外国へ留学することが流行り始めた時期。当時、大学4年生だった私が1年先に日本へ渡った先輩に留学手続きを頼んでみたのも、そうした時代の波に乗り遅れまいとの思いが働いたからだ。ところが、予想以上に早く東京の日本語学校の留学許可が下りたことが、かえって私を困惑させた。

 というのも、当時の慣例から申請してから許可が貰えるまで最低でも1年はかかると踏んだからだ。その間に大学を卒業し、語学の勉強もある程度進める心づもりでいたのである。

 冬休み、日本から送られてきた入学許可書などの種類を手に、私の心は多く揺れ動いた。そのまま入国ビザを取り、翌年春、日本語学校が始まる前に日本に渡れば、中国の大学は卒業できなくなる。しかし、今回入学を見送ればこんなチャンスは二度と訪れないかもしれない。たとえチャンスがあったとしても、こんなにスムーズに行くことはまずないだろう。

 悩みに悩んで、私は両親に相談した。意外なことに、父から返ってきたのは「自分のことは自分で決めろ!もう子供じゃないんだ」という突き放した言葉。軍医だった父親はこんな時も手厳しい。一方、母親の方は何を言ったらよいのかわからないのか、一向に口を開かなかった。

 そもそも、急に「日本に行くから」と言い出した私に不満を抱くのも無理からぬことだろう。春節が過ぎ、短い冬休みも終わった。心の中で葛藤がさらに深まる中、私は大学最後の学期をスタートさせた。

 初日、沈んだ気持ちでひたすら大学のキャンパスを歩き回った私だったが、そのうち足が無意識に教員の寮に向かっており、気付くと藍華という先生の家の前に立っていた。

 実は藍先生は私のクラスの担任ではなく、一、二年時の英語の教師。四十代半ばでありながら、まだ独身で、語学の他、音楽、美術、写真、料理、盆栽など多彩な趣味を持つ一風変わった先生でもあった。交換留学の業務や客員講師の仕事でちょくちょく外国の大学に行っていたことから、帰国後の授業ではいつも外国の土産話で学生たちの好奇心をくすぐっていた藍先生。おかげで学生たち、特に女子大生たちは、外国の情報だけではなく先生のライフスタイルまで興味津々だった。

 こんな先生が、私とどこか馬が合ったのか、教室以外でも親しく付き合ってくれ、私も先生の研究室には頻繁に足を運んだものである。グルメでもある先生は時々手料理まで振舞ってくれ、食事をしながら、それまでの自分の経験やこれからの人生観、そして当時はまだタブー視されていた「性」に関することまで、あらゆることを語ってくれた。先生の言葉を借りれば、私たちの関係は師弟というより「忘年の交わり(年齢を超えた友人)」であった。

 その日、藍先生はちょうど昼休みで、音楽を聴きながら午後の授業の準備をしていた。「何か心配事でも……?」と訪ねて来た私を部屋に招き入れると、中国では定番の来客用おつまみであるスイカのタネやカボチャのタネ、それにひまわりのタネを出し、いつもの口調で勧めた。「食べながらいいから、ゆっくりと話してみなさい」

 その時の私にはひまわりのタネを食べる余裕などもちろんなかった。自分は半年待って大学卒業してから留学ビザを申請すべきなのか、それともせっかく手に入れたチャンスをつかむため卒業を待たずにすぐにでも日本への入国手続きをした方が良いのか。私は悩んでいることを正直に打ち明けた。

 じっと耳を傾け話を聞いていたる先生は、私の話が終わると、視線を部屋の壁に掛かっている一枚の写真に移し、それを指差しながらこう言った。

「これは外国の田舎で撮ったひまわりの写真だ。どんな道を選んでも、このひまわりのようにまっすぐに生きて行けばいいんだよ。たとえ失敗しても後悔することはしない。自分の人生なのだから」

 藍先生のこの一言で、腹を決めた私はその後、順調にビザを取り、二ヵ月後には東京の地を踏んでいた。そして日本語学校での勉強を経て、大学に入り直したのである。私は藍先生のこの言葉をずっと心に刻み、それを励みに今日まで頑張って来た。

 卒業式の日。私はその頃すでにアメリカのボストン大学で教鞭を執っていた藍先生に、無事卒業したことを報告すると同時にまた大学院に進学したいという希望を明かした。そして、帰省した際に北京で買ったひまわりのタネを小包に詰められるだけ詰めると、国際郵便で先生の元へと送り届けたのである。