周来友エッセイ「ふみの日の出来事」

「ふみの日の出来事」

                                                                 


 携帯電話がまだ市販される前の話である。

 ある炎天下の昼下り、西新宿の高層ビル街の隙間に広がる空には、雲ひとつなかった。
 赤信号に待たされた私は、照りつける真夏の日差しから逃げるため、街路樹の陰に身を隠したが、隠しながらも頻りに汗をかいた。

 「お兄さん、お兄さん、ちょっと…」

 突然、後ろから聞き慣れぬ声が私を呼んでいる気がした。振り返って見ると、二十代後半の東南アジア系らしき男が、汗びっしょりの顔に、白い歯を見せながら微笑んで、この私をじっと見ている。

 「何の用ですか?」

 自分も外国人とは言え、いきなり違う人種の人に呼び止められて一瞬、戸惑いを隠せなかった。

「先ほど、お兄さんが郵便局で切手を買うのをずっと見まして、お兄さんが切手のコレクターだと思いました」

 恥ずかしながら、確かに私は中学時代から切手を収集する趣味を持っていた。
 東京に来てからは日本の切手を集め始め、今日は「ふみの日」で、記念切手を買いに新宿中央郵便局まで出かけた。

「でも、それがどうかしました?」

 私は一層怪しく思った。

「実は、僕もたくさん持っています。見てください。これは全部日本人の社長さんから貰ったものです。買ってくれませんか?」

 彼は私の返事も待たずに、肩に吊り下げている古い鞄から、一冊のスタンプアルバムを取り出して、私に押し付けてきた。

「ちょっと待ってください。まず、話を聞かせてくれませんか?」

 とうとう、暑さと彼の唐突さに耐えられなくなった私は、無理矢理彼を近くの野村ビルまで連れて行き、訳を聞こうとした。
 巨大なビルの陰では、幾分暑さが凌ぎやすく感じられる。憩いの場にあるベンチに腰を下ろした私と向かい合う彼は焦っているのか、なぜか不安そうな表情でしゃがんでいた。

「どこの国の人ですか?」

「インドネシアから来ました」

「日本に来て何年ですか?」

「六年になります」

 感心したことに、彼は日本語が意外にうまい。

 「でも、どうして切手を売るんですか?」

 彼は乾いた唇を舐めて、苦笑いをした。

「昨日、久しぶりに東京に遊びに来て、六本木のクラブで朝まで踊っていました。自分も知らないうちに、持って来た現金を全部使っちゃいました」

 彼は恥ずかしげに真っ赤な顔を下げて、話を続けた。

「明日、現場の仕事が待っているので、今夜中に浜松に戻らないと、社長に首切られます。
しょうがないから、持ち歩いている鞄の中にあるアルバムの切手を換金したいと思って、京王百貨店の切手コーナーまで行ったが、買ってくれませんでした。ぶらぶらと近くの郵便局まで歩いて行ったら、お兄さんを見かけました。切手が好きそうだから、きっと買ってくれると思って…」

 彼は私の反応を窺いながら、一生懸命同情を引き出そうとしている。
 私は躊躇した。が、彼の困り果てた顔がなぜか来日したばかりの自分と重なって見えた。あの時のことを思い出して、私はどうしても彼から切手を買わないでいられなくなった。

「冷たいものでも飲みませんか。後でちゃんと買ってあげますから」

 自動販売機ですっかり冷やされたコーラを飲んで、少しは暑さから解放されたようだ。
 そして、私も元留学生であることを知り、ずっと緊張していた表情がやっと緩んできた彼は、私に色々と自分のこと、インドネシアのことを話してくれた。
 名前はアンディ、二十七歳。六年前、東京の赤羽にある日本語学校で半年勉強した後、転々と関東地域の建築現場で日当一万円の解体作業をしては、国に送金をし続けた。昨年、実家のあるジャワ島で庭付きの豪邸を建てたという。

「良く頑張りましたね。普段、あまり遊ばないんですか?」

 感心した私は聞いてみた。すると、彼は気持ちを引き締めて、真面目に答えてくれた。

「日本に来てから、あらゆる遊びが出来て、誘惑が一杯です。でも、自分はイスラム教徒だし、お金も貯めたいので、とても遊んではいけません。毎年、せいぜい二回、東京か名古屋のクラブで踊りまくって、ストレスを発散していました」

「これからもずっと日本で頑張るつもりですか?」

「いや、来年には国に帰るつもりです。そろそろ結婚しようと思っていますから」

 別れ際、彼は今回助けてくれたことの恩返しを必ずするからと言って、私の電話番号を聞出して鞄の中のノートに書き記した。

 その日の夜、私の電話のベルが鳴った。受話器を耳に当てると、思いも寄らずあのアンディの声が電話の向こうから聞こえてきたのではないか。

「お兄さん、今浜松に着きましたよ。今日は本当にありがとうございました。でも、僕はお兄さんに言えなかったことがあります。僕は実はオーバースティなんです…」

 その時、電話の向こうで、ホームのアナウンスが大きく流れて、彼の話が聞き取れなくなった。

 私は受話器を置き、少しほっとした。

 私にとって、彼が言おうとした話はどうでも良いことで、彼が目的地に無事着いたかどうかだけは気がかりだったのだ・・・・・・。